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彼がタマネギを嫌う理由

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横島忠夫はタマネギが嫌いである。


まず味が嫌いだ。炒めれば甘ったるく、生では刺激が強過ぎる。
臭いが嫌いだ。鼻にツンと来る刺激が許せない。
見た目が嫌いだ。主にとんがった所とか。
そして何より――――――――目が痛くなる。


だから嫌いなのだ、タマネギという奴は。











授業を適当に受けて、バイトも怪我無く無事終わり。
そして今、彼の心は歓喜で満たされていた。
一つの具現化した幸せが目の前に鎮座ましましている。
夜の帳は既に落ちきって、窓の外は闇に覆われているが
彼の両眼には、眼の前にある輝きしか映らない。
ゴミだらけで、雑然とした彼の部屋でさえも
この幸福の具現が在れば、あたかも天国のよう。
嗚呼、この喜びを胸の中に収めておくには大き過ぎる。
耐え切れなくなった横島は握り拳を固めて、感涙と共に叫んだ。




「有難う牛丼ッ!!!!!」




それは存在そのものに対する感謝の意。
対象は、ほこほこと湯気を立てる丼一つ。
何せ、彼にとっては久方ぶりのタンパク質。
喜びを通り越した怖れの余り、土下座してないのが不思議なほどだ。
本日は人狼の子供を拾うなどといった素敵体験もしなかった。
よって、この牛丼を食う権利は、誰でもない横島自身にある。
彼が泣いている間にも、幸せは変わる事無く机の上に鎮座していた。
文字通り、牛丼一杯分の幸せが。
牛丼の隣には、水滴も美しくコップ一杯分の水。
食事の際にジュースなど邪道。男は黙って水道水。
思う存分泣いた後、心持ち急ぎながら割り箸を手に取る。
箸を伸ばすより先に、彼にしては珍しく手と手を合わせて



「いっただっきまーす!!!!」

『はい、どうぞ』



――――――――――その瞬間。
懐かしい彼女の声が聞えた気がした。
でも、部屋には彼一人しかいない。
だから彼の耳に届いたのは幻聴。
それを振り切るようにして、横島は牛丼に箸をつけた。










「・・・・・・・・っふぅ」



嵐のような勢いで一気に半分ほど喰い、一息吐く。
腹はそこそこに満ちた。これからは、舌を喜ばせる時間。
手にしたコップを傾け、半分ほどを流し込んで喉を潤す。
後は半分。されど半分。
まだまだ食事を楽しめる事に、横島は頬を綻ばせた。
けれど、次に浮べたのはは微かに眉根を寄せた表情。
彼の視線の先にあるのは、肉と共にご飯の上にある野菜。
やはり、このタマネギだけはどうにも苦手だ。
ここまでは勢いまかせに食べたものの
これからゆっくりと咀嚼するとなれば、どうにもこうにも考え所。
避けるべきか否か。それが問題だ。
腹を満たす事を優先させるか、味の方を優先させるか。
悩みつつ、箸の先でタマネギを突付いていると



『ダメですよ、好き嫌い言っちゃ』



遠く離れてしまった過去が今へと届いた。幻聴の形を借りて。
それを言われたのは自分ではなく、クラスメートでもあるバンパイアハーフ。
ニンニクを厭う彼に向けて、随分と酷な発言だと笑ったものだ。
めっ、と人差し指を立てて怒る彼女を懐かしく思い出す。
その時に浮べた笑み。それと同じ苦笑を横島は浮べ
再び牛丼に取り掛かった。勿論、ちゃんとタマネギも一緒に。










どれほどに恋焦がれた存在だろうと、結局は牛丼一杯。
完全に食べ終わるのに、そう時間はかからない。
米粒一つ残らず食べ切った後、コップに残った水を飲み干し



「ごちそーさん」

『お粗末さまです』



再び、彼の耳に届いた幻聴。
聞える筈が無いと知っている彼女の声。
首を回して部屋を見渡すと、目に映るのは汚れた何時もの光景。
何も変わらない部屋の中、ただ、彼女だけがいない。
何度もそうやって返してくれた彼女は、此処には居ない。
彼女は、氷室キヌは、横島の傍に居なかった。
外の音は壁に遮られ、静寂が満ちて行く部屋。
横島はテレビの方に一瞥をくれ
けれど結局つけないまま、片付けもしないままに
その場でごろりと寝転んだ。



氷室キヌが生き返って、もう一月以上が経つ。
それは、彼女が居なくなってから一月以上が過ぎたという事。
その間にも色々と事件は起こり、それらを何とか解決し
彼ら自身も成長し、変わらぬままに変わって行く。
最初、荒れ果てた惨状を示していた事務所は
少しずつ、少しずつ、片付けられていった。美神と横島との手によって。
時間はただ緩慢に過ぎて行く。何をどうしようとも。
時間はただ漠然と積み重なる。何をどう思おうとも。
居ないという事実が、当たり前と成って行く。
彼女の不在こそが、自然な状態へと変わる。
どれ程に、彼自身がそれを厭うたとしても。
一人きりの夜は、どうにも酷く、長く感じられる。
彼女が居た筈の場所に気付いた、こんな夜は。



閉じた目の上に右腕を乗せたままにまどろむ横島。
夢見心地のままに考える。
今度の休みには、おキヌちゃんに会いに行こうか。
記憶が無くたって構わない。また再開から始めればいい。
まず美神さんに聞いてみて、出来れば一緒に連れて行って貰おう。
あるいは、顔を見るだけだって構わない。
彼女が居るって事を、決して忘れたりしないように。
鼻の奥から感じる、ツンとした刺激を無視する。
きっとタマネギのせいに違いない。そう決めた。
先ほど食べた牛丼、彼女の作ってくれた食事、牛丼の中に在るタマネギ。
脳裏で今と過去との光景を混在させながら
再開の日には彼女をナンパでもしようかな、などと思いつつ
寂しい静けさの中で、横島忠夫は眠りに落ちて行く。
閉ざされた瞳から滲んだ雫が、音も立てずこめかみを伝い落ちた。









横島忠夫はタマネギが嫌いである

だって、こんなにも目に沁みる