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朝焼けを待ちながら

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その事件に対する明確な呼称は無い。

全世界規模の霊団及び妖怪の出没
被害は想定するだけ馬鹿馬鹿しい程であり
当然ながら負傷者数もまた数え切れず
だが、生きているだけ幸せだったと言えよう
たかが一時間にも満たぬ間に数え切れぬ程の命が散ったのだから

どうしてこのような事件が引き起こされたのか、未だ理由は明らかにされていない。
災害に理由など要らぬのか、人知の及ばぬ運命とでも言うのか
あるいは、更なる混乱を引き起こさぬ為に真相が隠されてでもいるのか
一般の人々に出来たのは、益体も無い思いに身を任せるばかりであった。

それは、もはや過ぎ去りし時、もはや過去の話。
だが、確かに世の全てが恐怖した時間があったのだ。
被害規模があまりにも莫大であったためか、様々な呼び名が付けられており
故に、明確な呼称というものはない。
その中でも最も単純なもの、けれどその時間を表せるもの。
日の光を生きねばならない人々にとって、振り返り見る場所に相応しい名。

その時間はただ、『夜』とだけ――――――――――





それより、数ヶ月ほどの時が流れ

ある街で、一つの噂が静かに浸透していた。

それは――――――――――『蛍』の噂















昼とも夜とも尽かぬ夕暮れという時刻
道を歩いていると一匹の蟲と出会う



『蝶』と出会えば帰ってこれる

『蜂』と出会えば殺される

『蛍』と出会えば戻れない




下らない噂話と一笑に伏す事も出来よう。
かつての事件を知る者が聞いた時には
過去の出来事との一致に何処か薄ら寒いものを感じたが、しかしそれだけだった。
彼は、彼女は、夕焼けに思うものなど持ちはしなかったから。
酷くたちの悪い偶然だろう、そう思った。
いや、思い込もうとしたと言うのが正解か。
他の者にとっても同様に、所詮、噂は噂でしかなかった。




―――――――――――本当に、人が消えてしまうまでは。




夕暮れの後には、欠片の光明も見えぬ夜が来る












失踪。よくある話といえば、よくある話ではあるのだろう。
消えた者に共通点は無く、強いて言うならばその周りで例の噂が広がっていた事くらいで。
単なる失踪事件との差異が、それ以上には認められなかったために
完全ではなかったのだが、オカルトGメンも捜査に乗り出そうとしていた。
その時には、失踪者の数は既に十を越えていたのだが。
まだ死傷者が出ていなかったのは不幸中の幸いだろう。

しかし、一般のGSへと依頼が持ち込まれることは無かった。
先と同様に、失踪がオカルトに関わるか否かを判断出来なかったためである。
痕跡などは残らず、場所の特定も出来ず
従って、捜査は遅々とした進みを見せた。
だが、ある日を境に全ての事象が動きだす。
それは、一人の人物が失踪した日の翌日



――――――――――――――――氷室キヌが居なくなった翌日から



寂しさ凝る黄昏は、星灯りすら届かぬ夜を静かに齎す










氷室キヌの行方が知れぬという報が届いてからの、美神令子の動きは迅速。
唯一の男性従業員の存在の為、もともと少なからず気にしていた事件だ。
かといって、無闇矢鱈と捜し歩く真似などはしない。
個人として探し得る範囲などは限られており
また失踪者の探索には、既に多くの人員が割かれているのだから。
故に美神は別の方向からのアプローチを試みた。
この街で起こっている不可解な出来事。
それと類似した現象が過去に在るか否かの調査。
そして、一つの答えに辿り着く。



タタリ



誰とも無く、何処とも無く、何時からか街に噂が流れている。
その噂は不吉で不気味で不思議なもので
謎めいた形で、死や消失を暗示している噂。
具体性に欠けたそれは、少しずつ抜け落ちるようにして
語られないようになり、そして噂が皆に忘れられた時
居なくなった人もまた、誰の記憶からも消えて行く。

そんな都市伝説じみた話。それ自体が一つの噂。
一説には吸血鬼の存在さえ口ずさまれているが定かではない。
信憑性が十分とは言えず、明確な証拠も無い。
だが、過去においても事実として人が消えていた。
何より、美神令子の霊感が告げている。これこそが本命であると。




逢魔時を見据えながら、闇に包まれた夜へと飛び込む














闇の中、氷室キヌは一匹の蝶と出会っていた。

気付いてみれば、周囲は一条の光すら無い闇。
パニックに陥らなかったのは性格か、はたまた経験の故か。
光が無いにも関わらず、自分の体ははっきりと見え
けれど周りは黒一色に染め尽くされている。
歩き出すには勇気が足りず、夢と思うには現実感が在り過ぎる。
どうしたものか、と座り込んだままに首を捻り
数秒か、数分か、あるいは気付かぬうちに数時間が過ぎたか。
視界の隅に入る白い影。ヒラヒラとフラフラと。
目を凝らして見れば、それは一匹の『蝶』だった。

ゆっくりとゆっくりと頼り無く空を舞い、此方へと近付いてくる。
そして、彼女の近くを飛び回る。それ以上近付かず、けれど遠ざかりもせずに。
少し近付いてみると、少しばかり距離を離し
また近付くと、更に距離を離す。
その動きは、まるで彼女を導いているかのようで
ほんの一瞬考えた後に、ぱんと手で頬を叩き立ち上がる。
脳裏に浮ぶのは一人の女性と一人の男性。
厳しくも優しい彼女と、情けなくも頼れる彼。
彼らを思い浮かべて、胸の奥に暖かな光を感じながら
頬にそっと微かな笑みを浮べ、氷室キヌは歩き出した。



『蝶』と出会えば帰ってこれる














夜の縁で、横島と美神は二人しておキヌを探し歩いていた。

時は昼とも夜とも呼べぬ狭間。落日と共に、空は朱に染まり。
場は公園。おキヌが最後に見かけられた場所で人影は少なく。
噂通りに事が運ぶのであれば、例え罠であろうとも飛び込む所存。
用いられる手段という手段の全てを賭して探索を続けていた。
しかし、時間は無為に過ぎて行く。まるで嘲笑われてでもいるかの如く。
諦めがついたのは、木々の隙間から見える空に群青が混じり始めてから。
方策を変更しようとし、美神は溜息を吐きながら横島を呼ぶ。



――――――――――だが、声は返ってこない。



気の逸りによる視野狭窄でも起こしていたのだろうか。
あるいは明滅する街灯に幻覚でも見せられたのか。
いつの間にか横島とはぐれてしまい、今此処に居るのは彼女一人。
いや、薄靄の幕が辺りに落ちる中、気付けばもはや一人ではなく。
周囲の暗闇を響かせて、無数の羽音が彼女を取り巻いていた。
そして美神の見据える先には一人の女性、いや一匹の『蜂』が。
油断無く神通棍を構えながら、己自身に言い聞かせるように口にした。
思考の端で、此処に居ない煩悩少年を想いながら。



「…………何時までも負けてらんないしね。
 ママを超えるには、ちょうどいい練習相手だわ」



『蜂』と出会えば殺される














星明りの下、横島は一人立ち尽くしている。

名を呼ばれた気がして、美神の声がした方へ振り返る。
けれど、其処には誰も居ない。傍には人の気配すら無く。
突然齎された孤独という現状に、パニックに陥りかけながらも
おキヌの顔を思い浮かべ、すんでの所で理性を取り戻す。
大きく深呼吸してから、単独行動に移る覚悟を決めた。
落ち着いて辺りを見渡すと、周囲を覆い尽くす薄靄。
靄を通して滲んで光る街灯は、彼の心に蛍を思わせて。
思わず目を奪われ、それと同時に視界に入ったのは、その下に居る人影。
瞬間、気を張り直した横島は戦闘態勢を取る。腰は引けていたが。
街灯に凭れていた人影は、静かな足取りで彼の方へと近付いて来る。
決して急がずに、けれど足を止める事も無く。

そして、横島は再会を果した。



『蛍』と出会えば―――――――








『初めまして……それとも久しぶり、かしら。ヨコシマ』







―――――――――――戻れない














蝶に己の名を聞いた――――――――――『私は後悔』と蝶は泣く



氷室キヌは『蝶』に付いて行く。
輪郭は朧。茫洋として掴み所が無く、捕らえ所が無く。
不意に、空を舞う『蝶』に少女の姿が重なった。
目を擦り再び見ると、前を歩いているのは少女の姿。
おキヌの驚きに答える事も無く、ただ静かに歩みを進める。

歩くうちに、辺りを覆う闇に映像が浮び始めた。
先を歩く少女と同様に、その全ての在り様は揺らぎ
後姿を見せる少女と違って、その全てが消えて行く。
映し出される像の主人公は、一人の少年。
彼が生まれ、出会いと別れを経験し、今に至るまでの
ただ、それだけの映画。何でもない、少年の人生。
けれど途中から、彼のものとは違った映像が混じる。
それは平凡な村。取り立てて目立つ事も無い、平穏で平和な村。
そして一夜にして、滅び去った村。死に絶えた村の姿。
滅びる前の村では、不気味な噂話が流れていた。
それが蟲に関わる事ではないにせよ、歪な類似はおキヌの足を留まらせる。
少しの間を開けて、少女もまた立ち止まった。

振り返る少女と、怯えを見せるおキヌと。二人の視線が重なり合う。
この時、初めておキヌは少女の顔を目にした。
忘れよう筈も無い。かつて出会った蝶の少女と同じ顔。
何の予告も無く目を反らし、少女は再び歩き始める。
一瞬の逡巡、けれどおキヌは再び少女に付いて行く。
それは、聞いた噂を思い出したからではなく
揺らぎ続けるその姿が心配になったからだけでもなく
先ほど覗き込んだ少女の瞳に、想う少年の面影を見たために。



後悔は、己自身を傷つけて止まず













蜂に己の名を聞いた――――――――――『私は無念』と蜂は叫ぶ



美神令子は満身創痍となっていた。
片膝を尽き、肩で息をしながらも目は油断無く辺りを見渡し
立ち昇る霊力は、その消耗振りにも関わらず
触れれば弾かれそうな程の圧力を放っている。
その傍には、無数の蜂の死骸が散らばり。
そして、『蜂』は彼女の目の前で倒れ臥していた。

『蜂』は言う。何故生きているのかと。
『蜂』は言う。何故に死なぬのかと、死ねぬのかと。
『蜂』は言う。何故別れねばならなかったのかと。

美神には返す言葉など無い。
例えどれほど恣意的に歪められていようとも
この言葉の群が誰の想いから出ているものか
聡明に過ぎる彼女は、とうに気付いていたから。
美神に返せる想いは一つだけ。
メフィストではなく、前世とは全く無関係に
ただ世界で一人だけ、美神だけが抱く想い。
彼と一緒に生きていたいと、ただそれだけの我侭。
どれほどの怒りを抱かれようと
どれほどの呪いを掛けられようと
決して否定だけは出来ない、酷く身勝手な我侭。
だが、それを聞いた『蜂』からは怨嗟の表情が抜け落ちて
ならば伝えろ、と嘲笑交じりの言葉を口にして
お前らは二人とも生きてるんだから、と言い遺し
『蜂』は音も無く消え失せた。あたかも夕暮れのように。

まだ美神は立ち上がれない。滲んだ涙を拭うまでは。



無念は、今に在る全ての破壊を願い















蛍に己の名を聞いた――――――――――『私は未練』と蛍は笑う



横島忠夫は眠っている。
空に見えていた星は雲に隠され、辺りに落ちるは闇ばかり。
闇を揺り籠にしつつ、さながら幼子の如く。
そんな彼に寄り添うのは、幸せそうな笑みを浮べる『蛍』
彼を優しげに見詰めながら、『蛍』は寝顔に語り始めた。
己が成り立ちを、全ての始まりを。

タタリ、それは現象として存在を続ける吸血鬼。
恐怖を宿した噂話を流し、それを身に纏い具現化する。
外見のみならず、能力も知識も感情も性格も。
その全てが、本質を歪められてはいるものの。
実際に形を取り、世界に在れる期間は一夜。だが、それで十分。
世界中の恐怖。夜を想う恐怖。闇に抱く恐怖。
タタリはそれを寄り代として噂を流し
かつて夜に深く関わった少年の想いを核としながら
あるいは『蝶』として、あるいは『蜂』として
そして『蛍』として、この街に現出した。
かつてワラキア地方に訪れた夜と同様に。

横島を見下ろす視線には、確かな愛情が表れている。
たとえ、大事な持ち物に対する愛なのだとしても。
頬を撫でる動きには、確かに恋慕の情が表れている。
たとえ、獲物を捕らえた蜘蛛に似ているとしても。
『蛍』の額は小さな光を放ち続ける。
彼の記憶から、彼女以外を消し去るために。



未練は、過ぎ去りし場所への逃避を望む















『蝶』は後悔 『蜂』は無念 『蛍』は未練

その全ては彼の想い、だが同時に彼女等でも在り

偽者でありながら真実の一部を担う、歪が更に歪みを得た存在















夕焼けを想わせる夜が どれほどに長く続いても




光亡き世界に、横島は座り込んでいる。
周囲には幾つもの珠が浮び、それらの一つ一つには
それぞれに、彼の知る全てが内包されていた。
だが、世界に静かな光が瞬く度に
その珠の中身が一つ、また一つと見えなくなる。
最初、横島はそれに恐怖感を、寂寥感を抱いていた。
けれど光が続くに連れて感情は薄れ、今となっては茫洋と眺めるだけ。
消えて行く記憶、削れて行く彼自身。
残されるのは『蛍』の映る珠ばかり。
だが何度目であったろうか、光と共に横島の耳に届く音。



それは、優しくも哀しみを帯びた笛の調べ



見えなくなる寸前、光の中で珠を掴み取る。
その中に居るのは氷室で眠る少女の姿。氷室を壊す自分の姿。
その姿も擦れて消えた。けれど横島は思い出す。
人の事ばかり考える、幽霊の少女との別れが在った。
映像の消えた珠が一つ、光を放つ。
再び映し出されたのは、亜麻色の髪を持つ女性。
優しくも厳しい、天邪鬼な上司との出会いが在った。
そう、全ては其処から始まったのだ。
周囲の珠が光を放つ。一つ、また一つと。

重ねた日々が在った。過ごした日々が在った。
出会いが在り、別れが在り、喜びが在り、悲しみが在った。
全ては横島だけのものであり、同時に彼自身を構成する全て。
それを否定するのは、蛍との生活からさえも目を背けているのと同じ事。

そんな事を忘れていた自分を情けなく思い
その事を思い出させてくれた彼女に感謝して
吼えながら立ち上がった横島は、一息に駆け出した。
優しい彼女の、笛の音が聞える方へと。




――――――――――――それでも朝はやって来る









一足遅く目覚めた横島は、倒れている自分に気がついた。
首だけを動かして、視界に心霊治療を続けているおキヌを捕らえた。
彼女の後ろに視線を伸ばすと、『蛍』と美神との戦いが見える。
『蛍』は口に笑みを浮べたままに、美神は息を切らせたままに。
どう見た所で、戦いは劣勢。
いや、正しく言うならば絶望的か。
相手は世界の恐怖を一身に引き受けた身。
横島の想いを核とした形では在ろうとも、それは一つの世界意思。
一個人でしかない美神が真っ向勝負を挑んだ所で、勝ち目など微塵にさえ在る筈も無い。
だが、美神は戦いを止めようとはしない。
ここで退いたならば、また彼に全てを背負わせる事になるから。

横島は見る。美神が受けて増え続けている傷を。
横島は見た。おキヌの目の端に滲んだ涙を。
横島は自覚する。消耗して立ち上がる事も叶わない自分の体を。
それでも、彼には出来る事が在った。
無理やりに身を起こし、治療を続けようとするおキヌから少し離れる。
美神が戦ってくれているからこそ
おキヌが回復してくれていたからこそ
彼にしか、出来ない事が在った。
なけなしの霊力を振り絞り、一つだけ文珠を形作る。



昼と夜の一瞬の隙間―――――――――短時間しか見れないから余計美しいのね



覚悟など既に終っている。
後は、決断を下すだけ。
それだけの事が、酷く難しいのだとしても。



恋は実らなかったけど。私達、何も無くしてないわ



蛍と過ごした時間、蛍と交わした会話、蛍の浮べた笑顔。
その全てを思い起こしてから、その全てと決別する文珠を手にした。



ヨコシマ……――――――――――ありがとう



彼の動きに気付いたのは三人が同時。
美神は彼を止めようと走り、おキヌは彼を止めようと口を開き
『蛍』は何もせず、ただ彼を優しい視線で捕らえていた。
だが、そのどれも横島を止める事は叶わず
彼の握り締めた珠の中、一つの文字が光を放つ。



『忘』



哀しい朝の訪れが、夜の残滓を終らせる









また、夜に会いましょう―――――――――――


それが、『蛍』の遺した言葉。口元には笑みすら浮べながら。
核を失った『蛍』は、形を留める事も叶わず夜闇に消えた。
全てはもはや過ぎ去った昨夜の話。時と共に噂話は消えて行く。



長い一夜が過ぎて、失踪者達は全員が無事に帰ってきた。
彼らは誰一人として夜の事を覚えていない。
まるで、本当に一夜の夢であったかの如く。
だが、あの時間が夢では無かった事を示す変化がある。



美神令子は少しだけ素直になった。
傍に居る人間くらいしか気付けない程に僅かだけれど。
思う事でもあったか、横島にボーナスをあげたりもした。
怯えを見せる彼をしばいたのは、とりあえず仕方が無い事だろう。

氷室キヌは少しだけ積極的になった。
取り立てて理由も無く、横島の家に遊びに行く。
何かをするわけでもなく、ただ傍に居るというだけの時間。
時々ご飯を作ったり、楽しく会話を続けてみたり。
たまにお隣さんの小鳩嬢と軽く火花を散らすのもお約束。



それらは決して同情などではなく

さりとて哀れみなどでもなく

彼への想いを自覚したから

自分の想いを深めたから



そして横島忠夫は――――――――――








午前4時という早朝というにも早過ぎる時間帯。
一台の自転車が夜風を切り裂いている。
それに乗る少年の名は、横島忠夫。
向かう先は、彼自身すら正確に決めてはおらず。

いつからか、彼は街を歩き回る癖が付いていた。
何か、落とし物を探し歩いているかのように。
それが高じて、脚としての自転車を求めた。
上司が買ってくれた時には、世界の終わりかと慌てふためいたわけだが。

どれほど走り続けていたか、空が少しずつ白み始めている。
自転車を止め、足を伸ばして地に降り立った。
明日と言う日は『明るい日』と書く。
それは陳腐な表現、けれど真理の一端。
確かに、世界は少しずつ明るさを増していた。



『蛍』に連なる全てを忘れ去った彼。
だが、忘れる事は、消え失せる事ではない。
夕焼けを見れば、理由も解らぬままに涙が流れ
一度夜になれば、何とは無しに胸がざわめく。
思い出そうとして、けれど思い出せない。
空洞の記憶が、消えない想いが心を締め付ける。

けれど、こうして明けようとする空を見上げ
彼が浮べているのは、自嘲ではない確かな笑顔。
湧き上がる感情と共に、地を蹴って日に向けて走り出した。






思い出せない記憶、忘れてしまった思い出

闇に隔てられたそれは、まるで夜に置かれたようで

けれど忘れたままで居たくはないから

夜の先に置き去りにした、夕焼けの記憶を取り戻す為に

だから、彼は走り続ける



そう―――――――――





――――――――――朝焼けを待ちながら