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月見

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夜空を仰ぎながら、胸に浮かぶのは御伽噺。

遠い遠い過去の御噺。遠い遠い国の御話。

使者に連れられ、生まれ育った地を離れた月の姫。

触れられぬ月を眺めて、遠くへと去った姫君に重ねて

此処には居ない、一人のことをただ想う。






――――――――――――――






誰かに呼ばれた気がして、美神公彦は宿舎から外へと出た。
紺に染め上げられた空は星に満ちて、輝きを降らせている。
彼の居る場所は日本から遠く離れた国、人も疎らにしか住まない密林の傍。
彼をよく知らない者がその行動を見れば、短慮であると叱るだろう。
広大なジャングル。脆弱な人間でしかない身にとって危険は数多い。
だが、彼を知る者であれば心配さえ無用だと笑うかもしれない。
昔と比べて力が落ちたとはいえ、自然と心中を読みとる強力なテレパスの持主。
加えて長きに渡る経験を経て、周囲の全てを知覚するに至った公彦にとって
昼と夜との違いさえも、さほどの問題ではなかった。
葉の陰に隠れた虫の思いさえも感じ取る彼である。
目を塞いでいたとしても、それと感じさせずに行動出来る自信があった。



ゆっくりと歩を進めながら、公彦は自問自答していた。
何故、自分は外へと足を運んだのだろう?
今のところ、周囲に危険は無い。
致死性の毒を持つ蟲も、鋭い牙や爪を備えた獣も
逃走が不可能と考えられる範囲には存在しない。
逆に言えば、その外には居るということだが。

ただ歩く分には、支障は無かった。
いや、可能不可能という問題ではないのだ。
こんな夜になって外出するだけの理由。
遠くから、誰かに呼ばれたような気がした。
しかし、こんな場所で一誰が呼ぶというのか。
気のせい、気の迷い、幻聴と考えてさっさと寝るか
どうしても気になるのなら、安全を優先して朝にでも確認すべきだろう。
だが、どちらも選ばずにこうして外を歩いている。
危なげも無く動いていられるのは、テレパスの御蔭だろう。
全てが寝静まった夜とはいえ、何処にでも命は息衝いている。
それらを全身で捉えながら、身を動かす。
街灯などという気の効いたものは、期待するだけ馬鹿馬鹿しい。
念のために懐中電灯を携帯してはいるが、点ける意味も無いので持っているだけだった。
それに目が効かないからこそ、余計にテレパスが働く気もしていた。




どれほど時間が経ったろうか。
如何に安全の面で問題が無かろうとも夜は夜。
時の経過は解り辛く、それは公彦にとっても同じであった。
歩いているうちに、泥濘に足が嵌り込んだりすると
自分は一体何をしているのか、と自嘲の念も沸いてくる。
帰ってしまおうか。幾度と無くそう思い、しかし足は前へと進み続けた。

そして、不意に開かれた場所に出た。
まるで誂えたように、準備でもされていたかのように。
視界を遮る枝葉は無く、蟲の鳴き声、獣の唸りさえも何処か遠く。
自然と導かれるようにして、公彦は視線を天蓋へと向ける。
仰いだその先に、視界を通して納得という結果を得た。



「ああ、僕を呼んだのは――――――――――」



心に届くのは小さく、呼びかけというよりは囁き。
何処までも遠くから、けれど其処に在るということは確か。
今まで気付かずに居たのが不思議と思える程に、満ちた月を空に見た。
降り注ぐ月影は清かに、音も無く地を蒼に染める。
薄い色を纏う月の姿は、寄る辺無く空を彷徨う鳥のようで。
ぼんやりと眺めているうちに、公彦は連想を抱く。
引きとめようとする努力の甲斐なく、迎えと共に空へと帰った姫君の話。
願い叶わなかった帝は元より、育ての親はどれほどの悲嘆に暮れたろうか。
如何な宝を残したとして、釣り合いなど取れる筈もない。

それでも、残された者は姫の幸せを願ったのだろう。
どれほどに遠く離れていようとも、その幸福を願って止まなかったろう。
虚空に浮かぶ真円を見ていると、そう思えてならなかった。
我が子を重ねながら、公彦は空に浮かぶ月を眺めていた。





ずっとずっと眺め続けていた。