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朝日に吼える

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狼の子が鳴いている。
日の光の下に吠えている。
家族に向けて朝の訪れを伝えている。

それを受けて、一人の男が布団より身を起こす。
しょぼしょぼとする目を擦りながら、視線を傍にやれば
其処にはちょこんとお座りをした子犬が一匹。いや子狼というべきか。
澄ましている様でいて、尻尾はぶんぶん振られておりその喜びを表している。
男が起きた事に気を良くしたか、狼の子は一つ大きな声で鳴いた。
人の耳であれば、ワン、としか聞えなかったそれ。
犬神に連なる血を引くものであれば、こう聞えていただろう。



『おはようでござる、父上!』










此処は森の奥深く、結界にて守られし場所。
人の身にては知る由も無き、人狼の隠れ里。










樹木茂る森の中、複数の獣の声が響いている。
それと合わさって聞えるのは笑い声。それらは全て大人のもの。
月の出ていない時間帯では、幼い人狼は人の姿を取る事が叶わない。
故に、木漏れ日に照らされる子供達は皆、狼の姿で遊びたおしていた。
獣毛に包まれた四足を以って地を蹴り、木々の隙間を風の如くに駆け
時に絡み合い、互いに噛み付き合い、土に塗れて転げ回り。
子供達の数はさほど多くない。精精が数匹程度。
その中に一匹、目立って元気な狼が居る。
銀にも似た白き体毛に包まれ、額の一房のみが朱を帯びて。
誰よりも大きな声で、誰よりも力強く、誰よりも元気良く。
月の光こそを力の源にする人狼でありながら
あたかも、降り注ぐ太陽光が彼女に力を齎しているかのように。
彼女――――――――そう、この狼は此処に居る中で唯一の女の子だった。
その名を、犬塚シロと言う。
彼女の父は、実の娘のそんな活躍を苦笑しながら眺めていた。





夜が訪れれば、刀の稽古。
降り注ぐ月光に照らされながら、各々の身に合った木刀を振るう。
ここでもシロは、他の誰よりも熱心であった。
唯一の女性にして最年少という事を感じさせぬ程に。
とはいえ、まだまだ子供の身。技は拙い所も多く、その力も強くはなく。
だが集中力や気迫は、指南する側の大人たちに勝るとも劣らず。
その姿を見る父は、誇らしく思うと共に少々複雑でもある。
可愛い一人娘が着飾った姿を見てみたい、と思うのも親としては至極当然。
シロは自分のことをそれがし、あるいは拙者と呼ぶ。
サムライを目指している、とは本人の弁であるが
見る側からすれば微笑ましい大人の真似事、子供特有の背伸びであった。
いや、より正確を記すれば父親の真似とでも言おうか。
強く、優しく、真の武人たる父親をシロは心より敬愛していた。
それは、母を早くに亡くしていた事もまた理由かもしれない。
だからこそ、シロは己を『私』と称する事が無い。
たとえ父の言葉といえども、そこはシロにとって譲れぬ一線。
時には軽く言い争う事も在るが、それでもシロは譲らない。
「父上は『私』と言わぬで御座ろう?」というのがその理由。
その言葉に父としては嬉しさを感じながらも、心中はどうにも複雑であり。
掛け声と共に切りかかって来る愛娘の姿に、苦笑と溜息を一つ。
その姿でさえも可愛らしいと思ってしまうのは、親の欲目であろうか。









平和な時間、平穏な日常。
狼達の日々はそうして過ぎていく。
何でもない幸せが其処には在った。
シロは幸せだった。父もまた幸せだった。
そして、その二人と共に生きる仲間達もまた同様。
昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を、そうやって続いて来た幸せ。



幸せだった。そう、幸せだったのだ――――――――――――










――――――――――ある日を境に、その全ては終わりを告げた。















現在の時刻は丑三つ時。
草木も眠ると言われる時間帯にも関わらず
人狼の里は、大人達の怒声と緊張感とに満ちていた。



「長老! 大変だ!!!
 犬飼ポチの奴が『八房』を持ち出した!!!」



闇色の空には真円を描く月が浮んでいる。
下界の喧騒などまるで無視しているかのように。
けれど、月でさえも余りの惨状を見かねたか。
薄雲の背後に隠れ、その身を朧へと変じた。




「人間を殺して『狼王』になるだと? 正気か!?」

「止めようとした犬塚が斬られた!
 我々が見つけたときにはもう・・・・・・・・・」



一人が口惜しげに呟いた、その言葉。
長老を含め、その場の誰も気が動転していたのだろう。
そうでなければ、誰かがその発言を諌めていたろう。
物陰に隠れた幼子が、それを耳にしていたのだから。
何時までも帰らぬ父を、迎えにと外へ出ていた幼子が。




「・・・・・・・やむをえん。奴は追放し、あとの事は放って置くのだ。
 『八房』が相手ではとめようとしても犠牲者が増えるばかり。
 ただでさえ数の少ない人狼をこれ以上減らすわけにはいかん。
 よいか! 誰も犬飼を追ってはならん!!!」



長老のその言葉もまた聞えていた。
だからこそ、幼子は駆け足で自分の家へと戻る。
急がなければならなかった。
誰かに見つかるより早く動かねばならない。
誰かに止められるより早く出て行かねばならない。
そして、その日のうちに幼子は―――――――――シロは里を抜けた。
たとえ己一人となろうとも、父の仇を討つために。











夜の森をシロは走り続けていた。
少しばかりの路銀を懐に、風呂敷包みを背に。
最初は追っ手がかかるのを危惧していたが
長老の命令故か、あるいは他に怪我人でもいたのか
理由は定かでないにせよ、誰も追って来てはいない事を己が鼻で確認し
微かな安堵と共に、走る速度を緩めていった。
疾走は次第に駆け足となり、少しずつ単なる歩きへと近付いて行く。
とぼとぼと歩く姿は迷子のようでいて、しかしそれでも歩みが止まることは無い。
そして、シロは辿り着く。通行手形が必要とされる場所へと。
此処は人狼の里と人の世界とを隔てる境界。
此処が引き返せる最後の場所、最後の時。
境界を前にして、シロは立ち止まった。
振り返ると、其処には長年暮らした人狼の里。
けれど、もう其処には迎えてくれる父は居ない。
唇を噛み締め、目尻に力を入れ、白み始めた空を仰ぐ。
もはや夜は終わりに近付き、朝焼けが空を覆い始めていた。
夜明けの証明として、シロの姿は光を放ち
その後に残るは風呂敷を背負う狼が一匹。
天頂を包む漆黒は、色の無い白亜へと移り代わり
段々と明るさを増す空は、夜を過去へと運んで行く。

シロは吠えた。小さな狼の身で、遠い空に向けて。
声を限りに、ただただ大声で、咆哮を捧げた。
その理由などただ一つ。届かせる為だ。
もはや届かぬ場所に、己が声を届ける為だ。
聞かせる相手は、もはや傍に居らず
だからこそ、大声で空に向けて叫び続ける。
次第に鳴き声は掠れて行く。やがて泣き声が混じり始める。
それでも、叫びを止められない。止めてくれる者が居ないから。

朝靄を通して薄青に染まる空に、狼の遠吠えが響いていた。
それは、全ての思いを吐き出すに至るまで
再びその足で歩き出すようになるまで
けれど、今はまだ歩き出せない。
降り注ぐ朝日が、余りにも優し過ぎて。











狼の子が鳴いている
空に向かって吠えている
たった一人の家族に向けて、朝の訪れを伝えている
けれど父は目覚めない。何時になっても、目を開かない。
これからも、ずっと。

それでも、それでも狼の子は――――――――――