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猫の名

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昔、一匹の猫が居た。


それはそれは綺麗な毛並みを持つ
誰からも愛された、可愛らしい三毛猫だった。
でも一つだけ、普通とは違っていたこと。
その猫は生まれつき、人の言葉を解すことが出来たのである。










猫が飼われていたのは、山間の寒村。
まさに田舎というに相応しい、けれど素朴で優しげな村。
一人暮らしが寂しかったのか、猫の飼い主は年を重ねた老爺。
日がな一日、猫はのんびりとした風情で生き続けた。
勝手気ままに生きながら、時に飼い主の膝上にまるまり撫でられる至福。
そうしながら、お爺さんはよく猫に語りかけていた。
本当に理解しているなどと、夢にも思いはしなかったろう。
猫もまた、何時から言葉が解るようになったかなど覚えていない。
人間とて、何時から言葉を喋れるようになったか記憶に無いのと同様に。

人の言葉が解る。
それだけで済めば、猫は幸せに生きられたろう。
いや、あるいは誰にも知られぬままだったのかもしれない。
誰もが口を揃えて言う。まるで言葉が解っているかのよう、と。
その台詞には、同時に解っている筈も無いとの想いが存在している。
動物と会話が出来るなどは、多くの人にとって夢物語だ。
翼も持たず道具も使わず、空を飛ぶのと同じ様な叶わぬ夢。
だから事実は、知られずにいられた筈だ。
ただ、猫が人語を解するだけであったならば。

如何に論じようとも、所詮は起こらなかった可能性の話。
起こってしまった、現実に目を向けるとしよう。
それは、猫にとって全てが変わり果てた日。



――――――飼い主と死別した日のことだった。














老人が、床に臥して迎えを待っている。
病気ではなく怪我などでもなく、寿命という抗えぬ終末。
狭い村のことである。親交の在る者達は皆、お爺さんの家へと集まっていた。
布団の横、猫が座っている。横を向いた飼い主と視線が合った。
浮べているのは微笑み。けれど、其処に力は最早無い。
寂しげに笑う姿は、猫に向けて謝っているようにも見えた。
何度も猫を撫でてくれた手は、もう持ち上がらない。
何度も猫に語りかけてくれた声は、もう聞えない。
にゃぁ、と飼い主に向けて鳴くと、周りの者は猫に軽く顔を顰めた。
寝るお爺さんの負担にならぬか、と考えたためであろう。
何も言わなかったのは、この離別に哀れを感じたからか。
にゃぁ、と猫が鳴くと、何時だって飼い主は幸せそうに微笑んでくれた。
今日もまた、同じような微笑を浮べてくれる。
微笑を浮かべたままに、お爺さんはゆっくりと瞳を閉じた。

そして、その瞬間に



「―――――――――!」



一際高く、猫は飼い主の名を呼んだ。
人間の言葉を以って、呼んでしまった。
だが、現実は残酷なほど無機質に過ぎて行き、死の帳は静かに落ちた。















神は居ない。
猫は身をもってその事実を思い知った。
声が届いたかも解らぬまま、飼い主が息を引き取ってしまったのが理由の一つ。




「・・・・・・・・・・・」



もう一つは、猫を見詰める村人の視線に在る。
神は居ない。神など居ない。
この世に、そんなものが居てたまるものか。
あるいは人にとっての神は居るのだろう。
けれど、猫にとっての神はきっと居やしない。

猫が周囲を見渡すと、その視線から逃れるように村人は飛び退いた。
まるで得体の知れないものを怖れるかのように。
全ては、飼い主を失ってからのこと。
人の言葉を喋った猫という噂が、狭い村中に流れ始め
何時しか可愛がってくれていた人達も、猫を避けるようになっていた。
よりによって、名を呼んだ時に飼い主が亡くなったというのが、要らぬ想像を沸かせる理由である。
猫の想いを鑑みれば、皮肉という他はあるまい。
そして、更に村人の想像を逞しくさせる事実があった。
折悪しく、猫は身重であったのだ。
根拠も無い噂が芽吹き、会話の中で花を咲かせる。
人の命を喰らい子を為した、と。





そして、猫は逃げ出した。

見詰められる視線に耐え切れず。
日々感じる孤独に耐え切れず。




それを追い立てるようにして、村人たちが囁く。
嫌悪を込めて。恐怖を交え。忌避感を抱きながら。
その声の大きさは違えども、成す意味はどれも同じ。



すなわち―――――――――――化け物、と。















飼い主を取り殺した化け猫と見られた猫は
鳴きながら、泣きながら、山へと逃げ延びた。



山中で一匹、猫は子供を産んだ。
子を産んでからも、猫は生き続けた。
山小屋を見つけてからは、生活も楽になった。
次第に、自らの体が変わっているのに気付く。
自らの姿が人間に近くなっていることには
単純な喜びより先に、戸惑いを感じていた。
それすらも、生活を続けるうちに薄れていったが。

数年が経過した。
猫は子の名を呼ぶことが出来なかった。
決めてはいたのだ。付けてはいたのだ。
けれど、飼い主を思い出すと名を呼ぶことが出来ない。
隠れながら潜みながら、人目を避けて生活を続け
時には山狩りにやって来た人を、殺めることさえもあった。
自分一人ならばまだ見過ごせたかもしれないが
年端もいかない我が子を思うと、僅かでも危険の目は摘んでおきたかった。
その代わりに、里へと降りたりはしない。猫が勝手に決めた不文律であった。
かつて化け物と呼ばれた身。その呼び名通りの命となっただけ。
自棄とまではなっていなかったが、日々疲れてはいた。
それでも、我が子を見れば生きる活力が湧いた。
名は、未だ呼べていない。





ある日、猫は遠出をした。
備蓄の食料が心許なくなって来たからである。
あまり近くばかりで山菜を取る訳にも行かない。
雑霊も蔓延る山の中、我が子一人を残して行くのには心配もあった。
けれど、食べる物無くしては生活も立ち行かない。
決して外に出てはいけないと強く言い含めてから
何度も振り返りながら、猫は山小屋を後にする。

猫が出かけて、暫くして後。
薄暗く汚れた雲から、涙に似た雨が降ってきた。
猫の子が留守を任された小屋の外、小さな人影が一つ。



予想外の雨に降られ、猫は家へと向け駆けていた。
考えていた以上に時間を掛けてしまった
やはり、連れて来るべきだったろうか。
悔やんでみても意味が無い。その代わりに足を速める。
我が子も、もはや乳飲み子ではない。考えて動くことは出来る。
大丈夫だと思いたかったが、不安は消えてくれなかった。
降り頻る雨中を泳ぐように、猫は獣道を風の如くに走る。

自らの住まう小屋が見えて、猫は安堵を感じた。
けれど其れは一瞬。浮べる表情は警戒の一字へと。
雨音に邪魔されて聞え辛いが、その中から声が届いた。
会話である。我が子の一人言、一人遊びではない。
警戒に殺意が混じる。我が子の無事を願いながら。
相手は迷い込んだ人間か、人のなれの果てである雑霊か。
そのどちらであろうと構わない。
相手が此方に気付いていないのならば、奇襲には最適だった。
何時もやっているように、心を研ぎ澄まさせる。
思い浮かべるは刃。命を奪うための硬質な煌きを脳裏に。
そして一息に扉を開け、一足飛びに不埒な闖入者の喉を狙った。



爪先は喉元に固定されている。
少しでも動けば、霊であるとて唯では済むまい。
命の在る無しに関わらず、猫の爪は存在を引裂くだろう。
寝転んだままに、我が子は目を見開いていた。
突然のことに驚いているのか、約束を破った居た堪れなさか。
その姿勢のままで、猫は動きを止めていた。
元より、殺さないで住むならばその方が良い。
まずは尋問し、状況を理解する心積もりだったのだ。
けれど今、猫は言葉を失っている。
声が出なかった。舌が動かなかった
目の前の光景が、現実とは思えなかったのだ。
爪を突き付けた相手、一人の霊は静かに微笑んでいる。
それはかつての、猫の飼い主だった。

偽物と考えるより先に、猫は慌てて手を引っ込める。
いや、例え似姿を真似ただけの存在だろうと
其の姿に向けて、危害を加えることなど猫には出来なかった。
老爺の霊は、猫に向けて手を伸ばす。
猫は小さく震えたものの、逃げられはしなかった。





そして伸ばされた手は、猫の頭を優しく撫でた。





場所は肌寒さを感じる小屋の中。外は今も雨が降っている。
頭を撫でる手は、温かさなど無きに等しい幽霊の手。
けれど、その微笑みは、その優しさは
猫がかつて幸せとして感じていた筈のもので。
もはや振り返るにも遠い過去、日溜りと膝の温かさを想う。

そして気付けば、飼い主の霊は何処かへと消えて
小屋の中には、猫と子との二人だけとなっていた。






我が子が、語り掛けてくる。
涙交じりで、精一杯に謝罪を込めて。

何で泣いてるの? 僕のせい?
かーちゃん、ごめんなさい。
もうしないから。ちゃんと言うこと聞くから。

我が子に、手を伸ばす。
涙混じりに、精一杯の感謝を込めて。
胸の奥から湧き上がるのは、汲み切れぬ愛しさ。
そして猫は、初めて我が子の名を呼んだ。
飼い主から貰った、最愛の名を。



「・・・・・・ケイ」



聞きなれぬ響きに、瞳を丸くさせる我が子を
尽きぬ涙を流しながら、猫は何時までも抱き締めていた。














昔、猫が居た。

美しい衣を纏ったかのような、綺麗で可愛らしい猫だった。







――――――――その猫の名は、美衣という。